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白柴「ゆき」の思い出

加害と被害

 「石原吉郎詩文集」(2005、講談社文芸文庫)を読んで。

石原吉郎は戦中派詩人で、戦後活躍した人です。シベリア抑留のエピソードをいくつか残しています。

ja.wikipedia.org

特に「ペシミストの勇気について」が良かったです。

彼の友人の鹿野武一という人について書いてあります。

舞台は旧ソ連強制収容所です。飢餓、危険、強制労働の3K(どころじゃない)です。テーマは、「加害と被害」「告発の不毛」です。

※あくまで読んでこう思った、というだけで、考証ではありません。

以下引用含みます。シチュエーションが重要なので、引用長くなってすみません。

 

「作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則となっている。(中略)犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割り込み、身近にいる者を外側の列に押し出そうとする。(中略)ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間の間にすさまじく入り乱れる。実際に見た者の話によると、鹿野は、どんな場合にも進んで外側の列にならんだということである。」(p106~P107、以下強調はブログ主による)

「バム地帯での追い詰められた状況の中で、鹿野をもっとも苦しめたのは、自動小銃にかこまれた行進に端的に象徴される、加害と被害の同在という現実であったと私は考える。」(p112)

 

 実際は鹿野武一氏が何を考えていたのか、エピソードは事実なのか、これはもうわからないことですが、少なくとも作者が「加害と被害の同在」という重要なテーマについて考えたことは確かです。

 

「私の知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。(中略)告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙であった。(中略)そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ち続けることによって、さいごに一つ残された〈空席〉を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの〈空席〉の告発にかかっている。」(p112)

  

 告発とは、被害者が加害者を非難することでしょう。加害者でもあり被害者でもあることを常に(おそらくシベリア体験のため)意識している人にとって、他人を告発すること自体が難しい。それは自分を撃つことでもあるので。〈空席〉というのはその状況全体のことでないかと思います。石原は、加害と被害についても書いていますが、明らかに加害に重点を置いています。重要なので全部引用します。

 

おそらく加害と被害が対置される場面では、被害者は〈集団としての存在〉でしかない。被害においてついに自立することのない連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし加害の側へ押しやられる者は、加害において単独となる危機にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼は常に疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙の中から、はじめて一人の人間が生まれる。〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、一つの危機として認識し始める場所である。(p113)

 

 自身が抑留の被害者でもあったにしては、自己を被害者と認識する人に厳しいです。これは加害者を擁護しているのでは全くないと思います。刑事事件のようなものを想定すべきでないです。我々の社会は、その構造上被害と加害を常時作り出し、それがなくなることはありません。全員が加害者でしかありえないし、被害者でしかありえない。誰かに靴を踏んづけられているとしても、自分のもう一方の靴はまた別の人の靴を踏んづけているわけです。自分を加害者と認定することは、その構造に気づくことです。だから、その構造から脱落したくなるわけです。引用続き。

 

私が無限に関心を持つのは、加害と被害の流動の中で、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立ち去って行くその〈うしろ姿〉である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどり着いた勇気の証しである。

 そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。

(p113)

 

 「ただ一人集団を立ち去る」ことなど不可能なので、社会生活は営みつつ、内面はということでしょう。セルフ疎外状態とも言えます。こういう心理状態で生きることは、私には無理です。

 加害者の自認とは、「罪悪感」と言い換えてもいいのではないでしょうか。被害者意識を持つことの不毛性は、罪悪感の欠如による(繰り返しになりますが、刑事事件等は指していません)のではないかと。私は他人の不正を告発することは大事と思っていますが、「自分も人の足を踏んづけている」ことだけは忘れずにいたいと思います。

(2022.3.06追記)

無自覚なハラスメントを行っていた人が、ある時己の行為のハラスメント性を悟り、そこから脱却する・・現代で言うとこのようなストーリーでしょうか。孤独な戦い。

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2015.11.25おやつを見るまなざし